5.1 独立性〔Independence〕の原理と中立性〔Indifference〕の原理

  1. 対象論――あるものとあらざるものを越えた存在論

 

5.1 独立性〔Independence〕の原理と中立性〔Indifference〕の原理

 

何らかの仕方で経験されうる、すなわち、心的行いのターゲット〔the target of a mental act〕となりうるどんなものも、マイノングは対象[GegenstandまたはObjekt]と呼ぶ。「対象」という術語は、「或る心的活動を考慮することなしに或る対象について語ってはならない」(1888-1903: 47)という意味での或る「関係術語」〔a relation term〕である。マイノングは、「対象」という術語によって表現される概念的な独立性だけを考えているのであって、存在論的な独立性を考えているのではない。また、彼は、対象を、意図的に、心的行いによって把握されている何かとではなく、心的行いによって把握されうる何か(それは表象されうる、判断されうる等々)とだけ規定する。彼は構成主義者でも主観的観念論者でもない。なぜなら、心的行いが、諸対象をつくり出す何かとしてあらかじめ考えられてはならないということを彼は認めているからである。彼(1904b, §4; 1921a: 110)はまた、「(あらゆる)もの」と「対象」の間の次のようなつながりを認めている。すなわち、あらゆるものは或る対象であるが、あらゆるものはそれの理解に論理的に先行しており、心にあらかじめ与えられている[vorgegeben]。

存在するものだけでなくすべての種類の非存在者(非実在, Routley 1980: 7)は、マイノングのすべてを含む対象論にその居場所を見出す――その中には、丸い四角のような不可能な対象さえも、また、或る形式の嘘つきや特別な場合の純粋に自己言及的な思考(たとえば、それ自身についての思考)のような逆説的な「欠点のある」対象もある。Twardowskiと同様に、非存在者について話すことは、単に何についても語らないことではない、すなわち、対象を欠く〔objectless〕表象と思考は存在しえないと、マイノングは主張する。彼は、「そのような対象が存在しないということが当てはまる対象が存在する」(1904b, §3)という逆説的な文を、二つの意味の「存在する〔there are〕」――第一に、外部にあること〔outside-being〕(あらかじめ与えられていること〔pre-giveness〕)としての、第二に、あることとしての――を導入することによって解き明かす。また彼は、逆説的な文の合理的な記述を、二つの綿密に関係する原理に言及することによって与える。(1)「あること〔being〕からの、かくあること〔so-being〕の独立性の原理」[Prinzip der Unabhängigkeit des Sosein vom Sein]と、(2)「あることに対する、純粋な対象の中立性の原理」(「純粋な対象の、外部にあることの原理」[Satz vom Außersein des reinen Gegenstandes])(1904b, §3-4)。

独立性原理――Ernst Mallyによってはじめて定式化された――は、「或る対象のかくあることは、それのあらざること〔non-being〕によって影響されない」(1904b: 8 [82])、すなわち、或る対象が性質をもつということは、それがあること〔being〕をもつか否かとは独立であると述べる。この原理についてのマイノングの論評は、それがいくつかの主張を兼ね備えることを示す。とりわけ、(1)特徴づけ原理――どんな対象も、その対象がそれをもつものと特徴づけられるところの性質をもつと仮定する〔postulates〕(たとえば、「ABはAとBそれぞれである」)――と、(2)存在論的想定の否定〔the denial of the ontological assumption〕――あることをもたないものについてのどんな真なる命題も存在しないということを否定する――(cf. Routley 1980)。

中立性原理は次のように述べる。「対象は、本来、あることに対して中立である――どんな場合にも、対象の、あることの二つの目的地〔objectives〕――対象のあることもしくは対象のあらざること――は存立する〔subsists〕けれども」(1904b; 13 [86])。この定式化は、「純粋な対象は『あることとあらざることを越えて』成立する〔der reine Gegenstand stehe ‘jenseits von Sein und Nichtsein’ 〕」という主張よりも誤解を招きにくいよう意図されている。後者のキャッチフレーズは、あることもあらざることも或る対象の本性の構成〔make-up〕に属さないということを意味する。だが、それは、或る対象が、それがあることをもつこともあることをもたないこともないという意味で、あることもあらざることを越えているということを意味するものと受け取られるべきではない――中立性原理の二つ目の節はこのことを明確にしている。或る対象のあらざることは、その対象の本性によって保証されるだろう――たとえば、丸い四角の場合においてのように――けれども、あらざることは、その対象の本性に属さない。言い換えると次のようになる。あること(もしくはあらざること)は、或る対象の本性の部分ではなく、それにもかかわらず、「あらゆる対象が必然的に、あることという或る事実において、もしくは、あらざることという或る事実において成立するということを、排中律ははっきり述べる」(Findley 1963: 49)。否定の二つの解釈(より狭い、内的な、述語の、あるいは存在論的な否定に対して、より広い、外的な、文の、あるいは論理的な否定)が存在し、したがって二つのバージョンの排中律が存在することは、注目するに値する。マイノングは、否定文に関してのみ排中律を受け入れていると思われる。

マイノング「対象論について」§1

§1. 問い

 

 (1)何かを認識することなしに人は認識しえないということ、より一般的には、何かについて判断することなしに、人は判断しえないし、それどころか、何かを表象することなしに人は表象しえないということは、こうした体験のあるまったく初歩的な考察がすでに明らかにしているきわめて自明な事柄に属する。そのことは想定〔Annahmen〕という領域においても変わらないということを、心理学的研究が今しがたやっとのことでそうした体験の方へ向いてきたにもかかわらず、私は、特別な探究をほとんどすることなく、明らかにすることができた。より込み入っているのは、この点では、ともかく感情――少なくとも、たとえば喜び、苦痛、またおそらく同情、嫉みなどの、人が感じるものへの指示を伴う言語は、疑いもなくいくらか惑わしいものである――においてであり――また、欲求――ここでは他方でまったく一義的な言語のしるし〔Zeugnisses der Sprache〕にもかかわらず、ときおり未だに、それによって何も欲求されないところの、欲求についての不測の事態に立ち戻るべきであると、人が思う限りで――においてである。だが、欲求のような感情が自明な心理的事実である――そうした感情が不可欠な「心理学的前提」への表象をもつ限りでは――という私の見解に賛意を表明しない者も、人は何かについて喜び、何かに関心をもつのであって、少なくとも大部分の場合に、何かを欲したり何かを望んだりすることなしには欲したり望んだりしないということを懸念なく容認するだろう。一言で言えば、心理的出来事に、この固有の「何かに向けられていること〔auf etwas Gerichtetsein〕」がきわめて頻繁に――その中に、心理的でないものに対するところの心理的なもののある特徴的な契機〔Moment〕を推察するということが、少なくとも非常に容易に起こさせられるほど――付随するということを、誰も見誤らないのである。

 

 (2)なぜ私が、この推察を、それと対立しているいくつもの困難にもかかわらず、非常によく根拠づけられたものとみなすのかということは、しかしながら、以下の叙述の課題ではない。関連づけ〔Bezugnahme〕、すなわち、かの「何か」、あるいは、人がまったく無理なく言うように、ある対象〔Gegenstand〕に明示的に向けられていること〔das ausdrückliche Gerichtetsein〕が、一切疑う余地のない仕方でおのずと胸に湧いてくる〔sich aufdrängt〕ところの事例は数多い――そうした事例〔sie〕だけを顧慮するときでさえ、そのような種類の対象の学問的な取り扱いがいったい誰の責務であるかという問いが、いつまでも回答されないままであるべきではないほどに。

 

 (3)理論的な取り扱いに値するものとそれを必要とするものをさまざまな学問領域に分配することと、こうした領域を入念に境界づけることは、もちろん、それを通じて達成されることになる、研究の促進に関しては、しばしばわずかな実践的な重要性しかもたない事柄である。結局のところ重要なのは、果たされる業績であって、それのもとでそれが生み出されるところの党派〔Flagge〕ではないのである。だが、さまざまな学問領域の境界についての不明瞭さは、二つの対立する仕方で有効に働きうる――そこにおいて実際に研究が行われる〔gearbeitet wird〕ところの領域が重なり合ってうまく機能するという仕方でか、もしくは、そうした領域が互いには到達せず、その結果として、研究の行われない領域が中央に留まるという仕方でである。そのような不明瞭さの意味は、しかし、理論的関心の領分においては、実践的関心の領分においてと同様に、まさしく、対立するものである。ここでは、「中立的な地帯〔neutrale Zone〕」は、いつも望まれるが、めったに実現可能でない、近隣との良好な関係を保証するものである――要求される境界が重なり合って機能することは、関心の衝突の典型的な事例である一方で。それに対し、理論的な研究の分野――そこでは、そのような種類の衝突には、少なくとも、あらゆる法的根拠が欠けている――においては、客観的に考察されるならば、境界区域――その結果として、場合によっては、さまざまな側面から取り扱いを受けるところの――の重なり〔Aufeinanderfallen〕は、せいぜい、一つの利益であり、隔たり〔Auseinanderfallen〕は、しかし、いつも一つの不利益――それの大きさが、その場合、言うまでもなく、中間領域の大きさその他の意味に依存するだろうところの――である。

 

 (4)そのような、ときには見落とされ、ときには少なくともそれの特性からして十分に価値を認められない知の領域を指摘することが、対象――それ自体としての、また、それの普遍性に関する――の学問的な取り扱いが、そのいわば適法な場をいったいどこにもつのかという、ここに投げかけられた問い、すなわち、学問的慣習によって信任された学問のもとに、ある学問――人がそれ自体としての対象の取り扱いをそれにおいて探しえたり、人がそうした取り扱いをそれに少なくとも要求しえたりするところの――があるのかどうかという問いの意図である。