マイノング「対象論について」§1

§1. 問い

 

 (1)何かを認識することなしに人は認識しえないということ、より一般的には、何かについて判断することなしに、人は判断しえないし、それどころか、何かを表象することなしに人は表象しえないということは、こうした体験のあるまったく初歩的な考察がすでに明らかにしているきわめて自明な事柄に属する。そのことは想定〔Annahmen〕という領域においても変わらないということを、心理学的研究が今しがたやっとのことでそうした体験の方へ向いてきたにもかかわらず、私は、特別な探究をほとんどすることなく、明らかにすることができた。より込み入っているのは、この点では、ともかく感情――少なくとも、たとえば喜び、苦痛、またおそらく同情、嫉みなどの、人が感じるものへの指示を伴う言語は、疑いもなくいくらか惑わしいものである――においてであり――また、欲求――ここでは他方でまったく一義的な言語のしるし〔Zeugnisses der Sprache〕にもかかわらず、ときおり未だに、それによって何も欲求されないところの、欲求についての不測の事態に立ち戻るべきであると、人が思う限りで――においてである。だが、欲求のような感情が自明な心理的事実である――そうした感情が不可欠な「心理学的前提」への表象をもつ限りでは――という私の見解に賛意を表明しない者も、人は何かについて喜び、何かに関心をもつのであって、少なくとも大部分の場合に、何かを欲したり何かを望んだりすることなしには欲したり望んだりしないということを懸念なく容認するだろう。一言で言えば、心理的出来事に、この固有の「何かに向けられていること〔auf etwas Gerichtetsein〕」がきわめて頻繁に――その中に、心理的でないものに対するところの心理的なもののある特徴的な契機〔Moment〕を推察するということが、少なくとも非常に容易に起こさせられるほど――付随するということを、誰も見誤らないのである。

 

 (2)なぜ私が、この推察を、それと対立しているいくつもの困難にもかかわらず、非常によく根拠づけられたものとみなすのかということは、しかしながら、以下の叙述の課題ではない。関連づけ〔Bezugnahme〕、すなわち、かの「何か」、あるいは、人がまったく無理なく言うように、ある対象〔Gegenstand〕に明示的に向けられていること〔das ausdrückliche Gerichtetsein〕が、一切疑う余地のない仕方でおのずと胸に湧いてくる〔sich aufdrängt〕ところの事例は数多い――そうした事例〔sie〕だけを顧慮するときでさえ、そのような種類の対象の学問的な取り扱いがいったい誰の責務であるかという問いが、いつまでも回答されないままであるべきではないほどに。

 

 (3)理論的な取り扱いに値するものとそれを必要とするものをさまざまな学問領域に分配することと、こうした領域を入念に境界づけることは、もちろん、それを通じて達成されることになる、研究の促進に関しては、しばしばわずかな実践的な重要性しかもたない事柄である。結局のところ重要なのは、果たされる業績であって、それのもとでそれが生み出されるところの党派〔Flagge〕ではないのである。だが、さまざまな学問領域の境界についての不明瞭さは、二つの対立する仕方で有効に働きうる――そこにおいて実際に研究が行われる〔gearbeitet wird〕ところの領域が重なり合ってうまく機能するという仕方でか、もしくは、そうした領域が互いには到達せず、その結果として、研究の行われない領域が中央に留まるという仕方でである。そのような不明瞭さの意味は、しかし、理論的関心の領分においては、実践的関心の領分においてと同様に、まさしく、対立するものである。ここでは、「中立的な地帯〔neutrale Zone〕」は、いつも望まれるが、めったに実現可能でない、近隣との良好な関係を保証するものである――要求される境界が重なり合って機能することは、関心の衝突の典型的な事例である一方で。それに対し、理論的な研究の分野――そこでは、そのような種類の衝突には、少なくとも、あらゆる法的根拠が欠けている――においては、客観的に考察されるならば、境界区域――その結果として、場合によっては、さまざまな側面から取り扱いを受けるところの――の重なり〔Aufeinanderfallen〕は、せいぜい、一つの利益であり、隔たり〔Auseinanderfallen〕は、しかし、いつも一つの不利益――それの大きさが、その場合、言うまでもなく、中間領域の大きさその他の意味に依存するだろうところの――である。

 

 (4)そのような、ときには見落とされ、ときには少なくともそれの特性からして十分に価値を認められない知の領域を指摘することが、対象――それ自体としての、また、それの普遍性に関する――の学問的な取り扱いが、そのいわば適法な場をいったいどこにもつのかという、ここに投げかけられた問い、すなわち、学問的慣習によって信任された学問のもとに、ある学問――人がそれ自体としての対象の取り扱いをそれにおいて探しえたり、人がそうした取り扱いをそれに少なくとも要求しえたりするところの――があるのかどうかという問いの意図である。